自由という言葉を大々的に使用している団体があります。
かのRichard Stallman率いるFree Software Foundation (FSF)です。
GPLという自由を守るための厳しいライセンス規定の元、数多くの優秀なソフトウエアが配布されています。
GNU一般公衆利用許諾契約書を参照すれば判りますが
成果物の改変、再配布、ライセンスの行使に関して非常に厳しい制限が課せられています。
私はGNU否定派ではありませんが、ここに自由の難しさを垣間見る事が出来ます。
自由というのは無形の物であり、文面や規定で定める事が非常に困難なのです。
"規定"という言葉を使いましたが"規定"というのは自由に対する束縛であり"自由"のカテゴリに入れるべきではないでしょう。
これを追求すると文字通り"卵が先か、鶏が先か"の論争になってしまいますので、
ここで私の主観を述べます。
私の考える自由とは"好き放題"の事であり、規定など存在してはなりません。
自由を行使可能にしたいソフトウエアを配布するならライセンス条文など添付すべきでは無いでしょう。
ですが、ここに自由の落とし穴があります。
配布する側が"好き放題"ならば使用する側も"好き放題"になります。
仮に貴方が機械制御の処理系をwebページで公開していたと仮定しましょう。、
貴方の処理系を使ってとある国が核ミサイルの制御システムを勝手に組んでしまいました。
思わぬバグを抱えた貴方の処理系を使用して組まれたシステムは誤作動を起こし一国を破滅させてしまいました。
当然の事ながら貴方の処理系に検証のメスが入ります
貴方の処理系には責任放棄や使用に関する制限が何も記載されていませんでした。
この時点で貴方に責任を追及するチャンスが発生します。
当然の事ながら、軍事目的での転用を禁止した条文はありませんので貴方に言い逃れのチャンスは残されていません。
ここでGPLの強みが出てきます。
大々的に責任の放棄を宣言しているのでこの心配は無いでしょう。
但しここで一つ私の中に懸念事項があります。
日本では創作物を作り上げた瞬間に著作権が発生します。
日本の法律で責任放棄という行為が果たして可能なのか、疑問が残ります。